このうえない 掌編小説風
このうえない (最上の、これ以上の○○はない)
子供の頃の話をしたい気持ちになった。
誕生日が2月でいわゆる早生まれと言うこともあって、
小学校に入学したときは身体も小さく、俺は朝礼の時はいつも一番前に並んでいた。
一年生の頃は、前の年の4月生まれの子と比べると約10ヶ月の年の差があるので
60歳を超えた今とは1歳の違いが顕著に現れるのもしかたない。
背が小さいだけではなく勉強や運動も遅れていると言ったら言い過ぎだけど
4月生まれの子から比べたら勉強する機会も運動のキャリアも10ヶ月の差があるのだ。
この差はおそらく小学校を卒業しても中学生の制服を着る頃まで埋まらない差なのだろう。
運動会でも走ったりすることは苦手で、玉入れや綱引きのように他の子に混じってする競技は大好きだったけれど、100メートル走などは、参加するのがとても嫌だった。
小学生の頃はマラソンはそれほど中距離ではなくせいぜい200メートルのグラウンドを10周するのが普通だろう。一年生の時は殆ど一生懸命に走らず一番ビリを悠々と走っていた。言い訳は「だって身体が小さいんだもん」で通っていた。
4年生の頃になると短距離走ではまだ体格差があるのでとても一位にはなれないのだが、長距離となるとそうでもない。持ち前のゆっくりと走る、でもじっくりと、そして確実にやり抜く自分の性格が功を奏したのか、化育の授業でマラソンをやって、クラスでトップになることが出来たのである。
嬉しくて、家に帰ると直ぐお母さんにそのことを話した。
お母さんは涙を流しながら嬉しそうに
「頑張ったんだね良かったねぇ」とその後の言葉は涙で出てこないようだった。
その夜、お父さんが帰ってくるまで俺は起きていられずに寝てしまった。
お母さんがお父さん話したのだろうか。翌朝、俺はそんなことを知らないからお父さんに昨日の子とを話した。嬉しい気分と夕べお父さんに話せなかったことが悔しくて、俺は顔をくしゃくしゃにして興奮しながら話をしたのだ。
「あのね、昨日マラソンでクラスで一番になったの、俺さ身体が小さいけど最初からトップを走って一度も誰にも抜かせなかったんだ。先生も途中から頑張れって、俺に向かって大声で叫んでたよ。嬉しくて手を振ったら、バカしっかり前を向いて走れだって、自分で俺に声を掛けたくせにさぁ、先生だって悪いんだよ、でも悪くない俺一番になったんだから。終わったら皆で拍手してくれたよ、クラスで一番小さいのによく頑張ったって、先生も泣いてたかな。俺もだけど」
嬉しくてお父さんに喜びをまくし立てるように話したらお父さんも喜んで
「そうかそれは凄いなあ、お前がそんなに頑張ったことを一生懸命に話してくれたことが嬉しいな。お母さんだって言ってたぞ、あの子がこんなに喜びを人に伝えることが出来るなんて」って俺に向かって言ってくれた。
しばらくはその話ばかりをしていた。
マラソンで一番なんて凄いな俺って。
その記憶も遠い思い出になり数十年の空白の後に、ふいに頭をよぎった。
そうだったのか、俺がマラソンで一番になったことより
俺の嬉しそに一生懸命に嬉しい気持ちを話す俺の顔を見て喜んでくれたんだな、
俺のことをよく見てたんだな、優しかったし。
と、今は亡き両親のことを懐かしく思った。
さっき窓の外を近所の子供が走っている姿を見て
あのときのことを、60歳を過ぎて始めて気がついたんだ。
マラソン大会で優勝して「このうえなく喜んだ」ではなく
いつも無口な俺のことを心配していた父と母だった
そんな俺があんなに喜んでお喋りをするんだから涙を流したのだろう。
両親の子育ての気苦労などを想像して64歳のジジイの俺も泣けてきた
というお話でした。
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