母へのしあわせ介護(施設内新聞、投稿)

介護施設で働いています。毎月、持ち回りで作文を書くことになっていました。


  母への幸せ介護


 自分が大人になり両親もゆっくりと歳をとっていく。昨日と今日となにも変わらない両親の姿がある。年が明け一年が過ぎ、さらに一年ずつ過ぎていく。
 両親はいつの間にか歳を取り周りの人から、お爺ちゃんお婆ちゃんと呼ばれるようになった。そして忘れていた両親の介護が目の前に迫ってきている事を知るのだ。
 去年、93歳の母が脳出血で寝たきりになった。
 私は62歳、3年前から自宅に近い介護施設で働いている。本職は自動車整備士なので若い頃の経験が活かされない職場だったが介護の仕事を通じて、お風呂の介助やオムツの交換や食事の介助、車椅子の乗せ方など一通り経験済みだったので、寝たきりの母が介護の必要な体になっても殆どストレスを感じる事も無く世話をすることが出来た。私の介助で母をリクライニングの車椅子に座らせリビングで家族と一緒に食事が出来たことが嬉しかった。
 心配なのは母のことよりもむしろ父の方だった。普段から夫婦で会話など余りしない方だったけど寂しさからなのか、それとも今まで会話をしてこなかったことへの罪滅ぼしなのか母の傍らに寄り添い、いつまでも話をするようになった。本当は疲れているから「そろそろベッドに寝かせた方がいいんだけどな」って思っても父の話は止まらない。私のストレスは母の介護よりも父の方に感じていた。
 母への食事の食べさせ方にもあれこれと口を挟むようになった。こういう時は本当にどうしたらいいのか解らない。あるとき、私に隠れて母にむりやりご飯を食べさせようとする父を咄嗟に大声で叱ってしまった。食事からオムツの交換や衣服の着せ替えなどやることは沢山ある。だけど高齢の父に任せることは出来ない。本当はもっと母の面倒をみたいのだろうって思った。
 諸々の手続き後、母はデイサービスに通うようになり私の負担も少し楽になったが、母は肺炎を発症して入院。
今年の一月に天命を全うした。思い返せば父にもっと母の介護を手伝わせてあげれば良かったと後悔した。私にも色々と思うところはある。正しい介護なんていうものはなく何処の家でも同じように年寄りが居て要介護になり、そして最後の日を迎えるのだ。
 その日は突然やってきた。母の容体が急変したと病院からの呼び出しで駆けつけたのは夜が明ける前だった。病院に到着し急ぎ足で病室に向かったが、母は既に息をしていなかった。顔にふれたらまだ暖かい。手を握ったら柔らかくて、母が手を握り返してくれるような気がした。なぜか悲しみを感じなかったのは母の手を握りながら「生まれ変わっても母さんの子供に生まれるから」と、心の中で約束したから。
 母の介護をしながら沢山お話も出来た。私が一方的に声をかける。
「ご飯おいしいね」とか「オムツ替えたよスッキリしたね」など。声は出せなくても母の顔はいつも笑っていた。時には赤ちゃんのように愛らしい表情も見せてくれた。母への介護のとき私は本当に幸せだった。
 私は今でも介護施設で仕事をしているいている。自分の体力が弱ってきているので退職を考えていたが「もう少し頑張ってみようかな」って思い直した。
 私のように年齢を重ねた人間でも介護の仕事ができたことに感謝している。介護の経験があれば寝たきりになった親への介護は、心に余裕にを持ち大変なことばかりではなく幸せな介護、なにより優しい介護が出来ることを知った。
 母が亡くなった後も介護の仕事をしている理由は、母への介護のときがとても幸せだったからだ。そして今でも、その幸せが続いているように思えるからである。

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